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観光情報
形態的価値
日本と世界の交流から生まれる
富岡製糸場の建造物としての特色は、建物や設備などにおいて、和洋の技術交流がみられること。置繭所や繰糸所などの建物は、木の骨組みと西洋のれんが積み(フランス積み)を合わせた「木骨れんが造」という構造で、れんがの目地にはセメントの代わりに漆喰が使われ、屋根は瓦葺き。フランスから導入した繰糸器も、日本の気候風土に合わせ、揚げ返し式(小枠に巻き取った生糸を大枠に巻き直す方式)にアレンジされ、さらに日本人女性の体格に合わせた高さに調整されていました。日本と世界の融合したカタチ。それが富岡製糸場なのです。繰糸所は「トラス構造」という建築工法を用い、柱の無い広い空間が保たれています。

繰糸所は「トラス構造」という建築工法を用い、
柱の無い広い空間が保たれています。
当時世界最大規模の製糸工場
富岡製糸場は器械製糸工場として当時世界最大級の規模を誇りました。器械製糸工場の規模は、繭を煮て糸を繰り出すための釜の数で表されますが、当時のヨーロッパの主要な生糸産出国であるフランスやイタリアなどでは150釜ほど。これに対して富岡製糸場は300釜と、2倍に達していました。その300釜を擁する繰糸場は、全長140メートル余りという長大な建物。多くの伝習工女たち(開業翌年の明治6年4月時点で556人)を集め、日本初の本格的で大規模な器械製糸が始まり、生糸の大量生産が行われました。

富岡製糸場空撮
当時の工場としての先進の設備
繰糸所の繰糸器の動力として、フランスから輸入された大型の蒸気機関が使われ、構内には約180メートルにおよぶ下水道、約400トンの水を蓄えられる鉄水溜(明治8年製造。現存する鉄製構造物として日本最古級)など、明治初期の工場として先進の設備が整えられていました。また、開設当初は1日約8時間労働、日曜休、病院・寄宿舎・食堂の完備、労働規則の制定など、近代的な工場制度と労働環境が整備されていました。余暇を利用した教育機会も設けられ、昭和23年(1948)には高卒資格を取得できる片倉学園が設置されました。

鉄水溜

女工館(外観のみ公開)

首長館(ブリュナ館)
1世紀余り製糸工場として
明治5年(1872)に明治政府による官営の器械製糸工場としてスタートした富岡製糸場は、その後、明治26年(1893)に三井家の経営となり、さらに、原合名会社、片倉製糸紡績へと経営が移りました。その間、関東大震災や世界大戦などの出来事がありましたが、一貫して製糸工場として機能し続けました。技術革新や設備投資により生産性は向上し、昭和49年(1974)には過去最高の生産量(37万キログラム余り)を達成。昭和62年(1987)の操業停止まで、115年間にわたって日本の絹産業を支え続けました。現在、繰糸所に残る繰糸設備は、機械製糸の最も進化した形を示しているということ。これも富岡製糸場の大きな特色です。

140年以上前の姿を今にとどめる
富岡製糸場の最も大きな特色は「140年以上前に造られた建造物群が、創業時の姿を残したまま、良好な状態で保存されている」ということ。このことは広く世界を見渡してもほかに例がなく、世界遺産以外でも富岡製糸場に匹敵する近代的製糸工場は現存しないとされています。奇跡的といえる富岡製糸場の存在。それは、片倉工業をはじめ、この巨大な遺構を後世に伝えようとした人たちの努力によるものです。
東置繭所
